
南風初代おとうさん・嘉手納知春は、幼い頃から三線を始めていました。
ほどなくすると、知春は、地元の名手と謳われるほどの腕前になりました。
知春の、プロ顔負けのバチさばきとノドを目当てに、南風には、たくさんの人が訪れました。
お客様からの求めに、気軽に応じ、三線を弾き、ともに謡い、語らう。終電を乗り過ごし、飲み明かしたお客様を、快く店に泊める。
そんな、気さくで飾らない知春の人柄が、多くのお客様を集めました。
新宿という土地柄、外国人のお客様も多く訪れました。彼らにも、知春の三線は、大好評でした。
韓国からの人にはアリラン、台湾の方には雨に咲く花、アメリカンにはユーアーマイサンシャイン、と、知春は、リクエストされるまでもなく、彼らの出身地によって、曲を弾き分けました。
彼らは、南国のリズムが合うらしく、母国の曲だけではなく、沖縄民謡の「谷茶前」に合わせ踊ってもいたそうです。
そんな、知春が作り出していた南風の気さくな雰囲気を、知春亡き後の今も、店のスタッフが、かたくなに守っています。

初代おとうさん・おかあさんこと、嘉手納夫婦が、南風を始めることになったのは、こんなことがきっかけでした。
昭和26年、東京・新宿。
当時の歌舞伎町は、繁華街から外れ、進駐軍キャンプとホテル街に挟まれた、へんぴな場所で、また、役務や遊びを終えた、外国人兵士たちの通り道でもありました。
ある日。
知春が、歌舞伎町の中にある自宅で、いつものように三線を弾いていると、一人のアメリカ兵が、フラリと家の中に入ってきました。
知春が、泡盛を一杯ごちそうすると、酔った彼は、知春の三線の音色に合わせ、踊りはじめたのです。
彼は泡盛を飲み干し、ひとしきり踊ると、知春にお金を渡し、出ていきました。
「これは、商売になるかもしれない・・・」
そして、三線を聴きながら、泡盛が飲める店として、南風がスタートしました。
開店当初、南風は、バラックの質素な店構えでした。
当時は、物のない時代でしたので、泡盛をメインのお酒にしたものの、なかなか仕入れが難しく、料理は、知り合いの肉屋から分けてもらったモツを、カリカリにして焼いたものを出すのが、精一杯でした。
また、外国人のお客様との生活習慣の違いに、戸惑うことも多く、キャッシュで先払い方式の、アメリカ人のお客様は、お酒を出すと同時に、お金をいただかないと、後では、なかなか支払っていただけなかったそうです。
幸子がモツを焼き、傍らで知春が三線を弾く。
そんな店のスタイルが、評判を呼んだのは前述のとおりですが、また、幸子が焼くモツが、思いのほか好評だったようです。
それに自信を得たことで、幸子と知春は、南風は、この後、本格的に、沖縄料理店としての道を、すすんでいくことになったのでした。